レゲエの歴史
レゲエ以前
1962年のジャマイカ独立以後、ジャマイカのミュージシャンは独自の音楽を作り出すことを模索する。そうした中で生まれたのがスカである。スカは、ジャズやリズム・アンド・ブルースなどの北米の音楽や、カリプソ、メント等のカリブ海の音楽に影響を受け誕生した。裏打ちのリズムが特徴である。その後スカのテンポが遅くなり、ベースラインがより複雑になったロックステディが生まれる。
サウンドシステム
ジャマイカの音楽は一般的にサウンドシステムと呼ばれる移動式で、巨大なスピーカーを積み上げた音響施設でプレイされる。そこでは曲を掛けるセレクター(selector。他音楽ジャンルのDJにあたる)、曲に合わせてしゃべったり歌ったりするDJ(Dee Jay)、セレクターのかける曲の説明などをして場を盛り上げるMCなどの役割分担がある。そこではダブプレートというそのサウンドシステム独自のレコードをかけたりして、互いに競い合った。レーベルの経営者がサウンドのオーナーであることが多く、リディムと呼ばれるカラオケを使いまわすというスタイルが出来上がったのはロックステディのころであるという。また、これらのサウンドシステムはクール・ハークなどの移民によってアメリカへ持ち込まれ、ヒップホップの誕生に影響を与えた。
※レゲエではMCのことをDJという場合もある。
レゲエの誕生
ロックステディは一世をふうびしたが、短命に終わり、1968年にはレゲエに取って代わられることとなる。ワンドロップと呼ばれる3拍目にバスドラムとスネアが入るゆったりしたリズムと、攻撃的なベースラインがレゲエとそれ以前のジャマイカ音楽との違いである。歌詞の内容も社会問題について歌うものが多く、ジャマイカの宗教的思想であるラスタファリズムにも多大な影響を受けている。レゲエと言う言葉の語源には諸説あるが、一般にはトゥーツ&ザ・メイタルズの「Do the reggey」という曲からだと言われている。
1970年代
それまで様々な音楽の影響を受けて混とんとしていたレゲエは、1970年代に入り、ルーツロックレゲエと呼ばれるスタイルを確立していく。またキング・タビーによるダブの発見、ディスコ音楽からの影響を受けた四つ打ちのリズムであるステッパーズリディムの登場などにより、主にクラブミュージックの分野で後世、大きな影響を与えることになる。またキングストンのゲットーを舞台にした映画「ハーダーゼイカム」やボブ・マーレィの世界的な大ヒットにより、レゲエはカリブ海の一民族音楽の枠を超え、世界に広まった。
ダンスホールレゲエ
1980年代初頭に入っても良質なルーツレゲエの作品が次々と発表された。それに加え、ジャマイカではダンスホールレゲエと呼ばれるリディムに乗せてDee Jayするスタイルが一般的になる。そんな中、1985年にプリンス・ジャミーが発表したリディム「Sleng Teng」からレゲエのデジタル化が始まる。これらの打ち込みよるトラックは、当時はコンピューターライズドと呼ばれた。またこのころからレゲエからラスタ色が薄れ、スラックネスと呼ばれる下ねたを中心とした歌詞やガントークなどが流行する。
イギリス
ジャマイカではダンスホールレゲエが現れたころ、イギリスではまた違ったスタイルのレゲエが生まれる。元々ジャマイカはイギリスの植民地だったので、出稼ぎのために多くのジャマイカ人が住んでいる。在英ジャマイカンは自分たちの音楽をイギリスに持ち込んだ。イギリスでサウンドシステムを経営していたジャー・シャカはコンピューターライズドによってルーツレゲエを表現した。このようなスタイルはニュールーツと呼ばれる。さらにデジタル化したレゲエからジャングルやドラム&ベース等の音楽が生まれ、UKニューウエーブにも影響を与えた。
1990年代以降
1990年代中ごろ、ジャマイカではルーツアンドカルチャーの標語の下、ガーネット・シルク等が中心となりラスタ復興の兆しが現れる。またテクノやエレクトロニカのアーティストのよる新たなレゲエの解釈やジャマイカのダンスホールとイギリスのニュールーツとの交流、ヒップホップとのクロスオーバーなど新たな動きが現れている。